十  勝  野

(文・高 橋 幸 男)
第3回 武道家として 芸術家として
修練は魂を磨くこと
 厳しい十勝の冬もまもなく終わり春が訪れる。日差しが強くなるにつれ、雪が解け残雪と畑でまだらな十勝独特の風景が現れる。その景色に画家として魅せられてきた。
 秋まき小麦の緑、枯れたススキなどの黄、空を反映した水たまりの青、遠くに見える日高山脈や大雪山系の薄紫・・・。白と灰色の世界は強い太陽の光で溶け、一気にさまざまな色彩に塗り替えられ、何もが輝き出す。
 そんな光や色の競演が頂点に達し、空と大地のエネルギーに圧倒されてしまいそうな"瞬間"がある。数日間から数時間で終わってしまう、年に一度しかない命の始まりの光景だ。キャンバスに凝縮しようと、もう30数回も挑戦してきたが、まだまだとてもとらえ切れない。
 画家としての活動とほぼ時を同じくして空手の世界に入った。苦しい稽古を長い間、辛抱強く続け、目標のレベルに達した時の喜びと、十勝の雪解けの中に身を置いた時の高揚感とがいつも重なっている。
 厳しい冬があるからこそ輝く春の風景と、黙々と稽古に耐えた後にくる境地は、コインの裏表のように一体になっている。
 格闘技の中で何が最も強いかなどとよく話題になるが、それに答えることは難しいことだ。スポーツでも、武道でも必ずルールがあり、それによって勝負が分かれることが多い。
 人を倒すことだけが目的であれば、凶器を持って不意を襲えば良いわけで、なにも苦しい思いをして空手などの格闘技を身につける必要はないだろう。
 空手が格闘技で一番すぐれているかという議論は別にして、これほど世界中に広がったのは、武器を持たないという平和の思想と、自分自身を守るという武の思想が入っているからだと思う。
 空手の型、試割りなどの演武を見ていると、長年修行を積んだ人たちの動きは美しく、躍動感があり見る者を感動させる。
 全日本極真連合会の大石代悟主席師範は型「十八」の演武で、真横に高く蹴った足を床につけず、いったん引き寄せいとも簡単に真正面の顔の高さに蹴り、まるで足が刀のようにきらめいたように見える。極真空手の創始者、大山倍達総裁(故人)は「足に目がついている」と絶賛した。大石主席師範の足技は空手界で妖刀「村正」に例えられるほど美しい。
 空手は武術としてのレベルの高さと、しっかりとした哲学が重なり合った日本の優れた文化だと思う。
 空手も芸術と言えるのではないだろうか。芸術という定義の解釈は人によって多少違ってくると思うが、簡単に言ってしまえば、思想を何らかの形で表現し理屈ぬきに人を感動させるものだ。
 空手が受け入れられてきたのは個としての人間の尊厳と野性を取り戻すことができるからだと思う。人は文明の中で一部の動物を家畜としてきたが、その一方で人の精神と肉体は家畜化、ブロイラー化してきたのではないだろうか。
 年をとるにつれ、体力も衰え、武術としての力は失われるのは仕方のないことだろう。60歳を過ぎてもなお若い人たちに負けない武術の達人はいるが、肉体が消滅するのは人の運命だ。
 しかし、肉体の鍛錬とともに磨き込んだ魂の輝きは色あせることはない。
 武道家であれ、芸術家であれ、修練は最終的に魂を磨くことが本当の目的である。人が本来生きていく意味はそこにあるのではないかと思う。
(空手家、画家)
2009年2月4日北海道新聞十勝版(夕刊)掲載


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