十  勝  野

(文・高 橋 幸 男)
第8回 ホラを吹くということ・・・
退路断つ決意の表れ
 帯広市にある弘文堂画廊先代社長の小藤田勲さん(故人)は、ホラを吹くことで有名であった。
 縁あって今も弘文堂画廊にはお世話になっているが、数年前亡くなった小藤田さんとは画廊社長と画家という関係を超えた師弟のような関係でお付き合いしてもらった。その先代社長はとても出来そうにないことを、よく世間に吹聴していた。
 しかし、そのうち周囲をも巻き込み、いろいろと迷惑をかけながらも何とか実現してしまう。そういう独特のキャラクターとバイタリティーで地方文化を大きく盛り上げていった。付き合う方は大変であったが、随分と影響も受け勉強させてもらった。
 空手は画家としての活動とほぼ同じ時期の1976年ごろに本格的に始めたが、一度は大会にも出たいと考え入門2年目くらいで北海道大会に出場した。
 しかし、結果は初戦敗退で自分の実力の程を思い知った。そして翌年もまた次の年も結果は同じであった。
 画家としての活動、空手の稽古、仕事と毎日が苦行のようでもあったが一度で良いから上位入賞を果たしてみたいという思いは捨てがたく、悩みぬいた末、苦肉の策を思いついた。先代社長のようにホラを吹くことであった。
 ホラを吹いて自分をのっぴきならない状況に追い込み逃げ道を断ってしまおうというものであった。
 そう決意すると、まず道場の先輩、後輩たちに「北海道大会で優勝する!」と宣言した。当時の実力の何十倍もの目標であった。
 みんなは一様に呆れた顔をして返事もしなかった。
 当時は空前の空手ブームであり、極真空手はケンカ空手、地上最強の空手と恐れられており、大会は中島スポーツセンターで行われる北海道大会が道内唯一の大会であった。現在のように各分派がそれぞれの大会を開くといった時代ではなく、本当に全道から強豪が結集し、その年によっては本州、外国からも参加者があった。
 上位は全て札幌の選手が占め、われわれのような地方の選手はほとんど初回でノックアウトされそのシーンがテレビで放映されたりもした。
 なぜわれわれは勝てないのだ? 口惜しくて仕方がなかった。当時、地方にはほとんど指導者らしい存在がなかったせいもあるが、負け癖が付き、気持ちが萎縮してしまっているのではないか?
 一度口から出てしまったホラは実現しなければうそつきといわれ、誰からも信用されなくなってしまう。
 だから本気でやれば札幌の選手たちにも勝てるんだとお互いにホラを吹きあうように仕向け、その中で自分自身も今までの限界を越える稽古を重ねて行った。
 結果的には北海道大会の無差別級を制することは出来ず準優勝に終わったが、うそつきだとは誰も言わなかった。それまでは札幌以外の選手では4位が最高であったと思う。
 私はそのようにして空手以外にも次々と細かな目標を達成していった。
 極真空手の創始者・故大山倍達総裁が常々「口謹んで心広く・・・」と言っていたが、出来ればホラなど吹かない方が良いかもしれない。しかし、うそつきは良くないとしても、決意の表し方の方法としては良いのではないか。
 昔から偉人たちの多くがこの方法をとっている。
 トーマス・エジソンが電灯発明の決意を発表したものの、失敗続きだった時に新聞は「エジソンはいかさま師だ」と書き立てたという。
 一度しかない人生である。目標達成のためには自身の退路を断ってしまうくらいの決意も必要なのではないか。
 またその方が楽しみながら生きていけるのではないか。とくに若い人たちには、やれば出来ると信じ、現在の実力以上の目標を掲げ夢を実現してほしいと思う。
(空手家、画家)
2011年1月5日北海道新聞十勝版(夕刊)掲載


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