大会レポート


第43回全日本空手道選手権大会
2011年12月11日(日)
東京都・駒沢オリンピック記念体育館



旭 川 支 部
原 一 浩 参段



全日本大会に審判員として参加して

 平成23年12月11日に開催された極真連合会主催の全日本大会に行って参りました。例年だと選手のサポートとして行くのですが、昨年、国内A級の審判員の資格を得る事が出来ましたので、今年は副審としての参加です。会場で審判員の打合せ、審判員の組み合わせ表を見た時には緊張が走りました。

 全日本大会に出場する選手は国内の道場の代表として参加しますので、一流の選手です。審判として気負いしないようにと思いました。

 大会前日に東京入りをして、会場設営のお手伝いをする事になっていましたが、設営開始時刻が16時となっており、羽田に15時半近くに着くと宿泊先で石川先生と合流し、すぐに会場である駒沢オリンピック公園に向かいました。会場では日中、関東学生大会が開催されており、その関係か会場に到着するとほとんどの作業は終了し、後は試合場にマットとシートを敷くだけとなっておりました。

 会場では大石師範や長谷川師範がいらっしゃいまして、橋師範・石川先生とともに歓談する事が出来ました。

大石師範は腰を悪くされていたとお聞きしていましたので、元気そうなお顔を拝見出来て嬉しかったです。それが顔に出たのだと思いますが、大石師範に「原さん、元気そうな顔色しているね!」と声を掛けて頂きました。

長谷川師範には、iPhoneのアプリが出来たとの事で、既に自分はダウンロードして活用していましたので、その評価について話を致しました(スーパーが付いていて、仕事しながらでも分かる構成になっています。もちろん、仕事中は見ていないですが・・・)。

会場設営が終わったのが19時半を過ぎていましたので、北海道から来ていました野中先生と佐藤先生、栃木の太田先生、埼玉の橋本先生とともに会食をしました。会場から渋谷に出て、山の手線に乗り換えようと思っていると、山の手線が止まっていました。やむを得ず、渋谷で会食する事に・・・土曜日の夜の渋谷はすごい人です。皆既月食を忘れてしまうくらいの人と言えば想像がつくでしょうか?人混みが嫌いな自分は、酒に酔う前に人に寄ってしまいました。

大会当日の朝、中井選手とロビーで合流し、会場へ!

ホテルからは電車を乗り継ぎ、45分くらい掛かります。会場に着くと自分のブログ仲間が待っていて下さいました。この方、石垣島に今年の春までいたのですが、今は名古屋の長谷川道場で長谷川師範・纐纈選手に指導を受けている、なんとも羨ましい人物です。

今大会は連合会の選手が優勝出来るか、初めて他流派に持って行かれるかの天下分け目の大会でした。

初戦から好カードが続きます。

自分の出番は二回戦の前半でしたので、それまでに目を慣らさねばと思い、試合を見続けました。特に掛けからの膝蹴りは特に注意するように審判員の打合せ時に言われていましたので、どのくらいで旗を上げるのか注視していました。

いよいよ自分の出番です。今までは観客席やDVDで見ていた選手を間近で見て、ジャッジするというのは妙な気持ちの高揚を覚えました。実際に副審の椅子に座ると緊張感よりは責任感の方が強く感じます。

自分が担当した8試合では一つだけ、掛けからの膝蹴りが実際にありました。相手は倒れましたので、自分は技ありの旗を上げたのですが、他の審判員は反則のコールです。自分の位置からは丁度選手の影になり掛け手が確認出来ませんでした。自分の目で見えている範囲で判断する訳ですから、旗は変えませんでした。

他の審判員の方々と違うジャッジをしたのが、この膝蹴りを含めて3回ありました。そのうち1回について、自分だけ引き分けにしたのですが、審判部長の方から「審判員席では、引き分けが多かった」と言われた時は自信になりました。

今回は審判員として貴重な経験をさせて頂いたとともに、一流選手の本気の突きや蹴り、息づかいというものを間近に感じる事が出来ました。

大会の詳細は連合会のHPや雑誌で知る事が出来ると思いますので、触れませんが、纐纈選手は二連覇で極真の威厳を保つ事が出来ました。その纐纈選手と互角の戦いをした中井選手にも敬意を称したいと思います。

3日目、例年であれば午前中はセミナーなどが行われるのですが、今年はありませんでした。出発まで時間が出来ましたので、橋師範と石川先生、中井選手とともに大山総裁のお墓参りに行きました。自分は以前に一度行った事があったのですが、お墓の場所が分からなくなってしまい、お寺に方にまた聞いてしまいました。

その後、橋師範、石川先生に無理をお願いして、大山総裁が建立した総本部を見に行きました。空手バカ一代等に出てくるイメージでは大きな建物でしたが、実際は大きなビルに囲まれて、ひっそりと建っていました。今は、「強者どもの夢の跡」のような感じでしたが、隆盛期には燦然と輝いていて、大物選手や人物を輩出していたのだと思うと感慨深いものがありました。

帰りの便では、旭川空港の天候次第で千歳空港への変更、または羽田空港へ引き返す事を条件に出発しますとのアナウンスが流れて、一時は焦りましたが、旭川空港の除雪が間に合い、事なきを得ました。

押忍

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